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二日目は、須賀川の観光課の方がついてくださいました。
それと須賀川の名所であるぼたん園のおねーさん。

途中、鏡石町に入って、また須賀川に戻ってくるというルートです。

宿泊した場所は天栄村のペンションだったのですが、
そこから山を下ってくる途中、何か所も急カーブで傾斜のついた山道があり、
舗装はされているのですが、
昔の冬場はしょっちゅう他の地方から来たトラックが横転していたそうです。


その頃山の上の集落に住んでいた人たちは、
冬になるとふもとの平地の方まで下りてきて、暖かくなるとまた戻るという生活だったそうです。
男性は出稼ぎに出たりして。

今は大規模なリゾート地があり、ブリティッシュヒルズもあり、
安定して一年中働ける職場があるので、山
道も生活道路として利用される必要性が出て来まして、
除雪をしているほかに、道路の下に熱線を通した箇所が4か所。
熱で雪を溶かしてアイスバーンを防止してるので、
初心者や女性の方でも車を運転して来ていただけるということです。。
(1か所1億円もかかるそうです)


と、その道を下り平地に出ました。
震災のことなどを聞くと、
一見見た目は分からないです。

被害なんてあったの?と忘れてしまうくらいに。


この辺は福島の中でも「中通り」という場所になります。
県を縦に大きく3つに分けているのですね。
気候も住んでる人の気質も変わるそうです。

海に近い「浜通り」
真ん中が「中通り」
左が「会津」

わたしは夏に浜通り、と言われるいわき市の下の方に、
日帰りで友達に会いに行っています。
そちらは地震の後に津波被害に遭っているので、
1年以上経った後でも、見た目で「なんて酷いことに」と分かります。


今回の旅の二日目は、
「中通り」の「岩瀬地方」の須賀川のお話になります。

バスでのん気に通っていても、のどかな田園風景が続いていて、
本当に気がつかないんですが、
話を聞くと「この3軒だけ全壊で、隣は瓦が落ちただけなんですよ」
「お墓は倒れただけで壊れなかったけど…」

など沢山の被害を教えてもらいました。


藤沼湖に着くと、市の職員の方の案内により、
リゾート地区に入っていきます。
「しょっぱなから被災地にご案内するのでビックリされるかもと思うのですが、
どうか知って帰っていていただきたいとの思いからです」
と、以前はやはり広大な敷地内に温泉施設やホテル等があったそうですが、
今は運営ができてなく、ゲートボール的なゴルフみたいなコースのあるのだけが、
一般のお客さんを入れて、楽しんで頂いているそうです。

わたしたちが行った時も、かなりの賑わいでしたよ。


この藤沼湖というのは、やはり灌漑用の人造湖ですが、
コンクリで作ったのではなく、
アースダムという土を人の力で盛り上げて作ったダムだったらしいです。

過去形なのはですね…


地震の時に決壊したそうです。
猛烈な勢いで土砂が流れ、十人以上の方が亡くなり、
数人がまだ行方不明だそうです…

その話を伺いつつ、
市の職員の方がいるので、バスは普通入れない場所まで入れていただきました。
一般には公開していない場所です。




道が、無い。


わたしの立っている場所から、向かいの山までが、ダムの堤防だったのですよ。
ここから真っ直ぐ、アスファルトの道が延びていたのです。

決壊したというのは、堤の一部が決壊したようなイメージでしたが、違いました。
水をせき止めていた、すべての部分が。

そのまま地震で崩れて流されたのです。

なので、下に見えるブルーシートも、工事現場などではなくて。
水の底にあったはずなのです。
 














湖の周りに来た観光客が居たであろう眺望の良いこの場所で。
手すりは、それを支える土台を持っておりません。
宙に浮いたまま、このまま一年以上。
「ここも、すべて、元に戻す計画はあるんです。いつか…」
観光課の方はそうおっしゃっていました。




















 


JAの物販所にその後、連れて行っていただきまして。
そりゃもう大変な盛況でした。
市の中心地なので、建物や住宅がびっしりです。

しかしJAの物販所の道を隔てた所にある、須賀川市庁舎はありません。
大きなプレハブが建っていまして、そこと他にも民間のビルに間借りをしながら、
日常の業務を行っているそうです。

震災の後は、体育館の卓球台が皆さんの机だったそうです。


須賀川の名物であり、日本三大火祭りに数えられる「大松明かし」が、
来月に行われるということで、そのDVDを見ながら移動です。

大松明かしは、戦国時代にこの辺りを治めていた二階堂氏が、
親戚関係にあった伊達家と戦い、破れた際の鎮魂の祭りを発祥としているそうです。

DVDを見ただけですが、大変美しいく勇壮なお祭りでしたよ。
燃やす松明かしは風呂屋の煙突のような大きさです。
竹で枠を作り、茅を詰めていきます。
大きいものだと2トンほどになるそうで、それを運び、立て、火を点けます。

http://www.city.sukagawa.fukushima.jp/taimatsu/index.html

すべて市民の手で行うそうです。
DVDの最後、何本もの巨大な炎の柱が燃えてゆくさまは、
幻想的で鎮魂の名にふさわしいものでした。

その後、鏡石町に移動です。




こちらは完全に平地の中の静かな町で、
町おこしとして「田んぼアート」を昨年から始めたそうで、
最近の田んぼアート界でのマストは青森県で、そちらを目指すそうです。

この時はもう、稲刈りは終わってました…
 
辛うじて、なんとか、字はわかるかな?

その後は、岩瀬牧場へ。
町中にあるひろーい牧場です。

下の黒々とした建物は、実は長ーい高床式のとうもろこし乾燥小屋。
こちらは明治時代に天皇家のお狩り場から始まった、日本初の牧場ですって。
その明治時代の小屋は、震災の際にはびくともしなかったそうです。



反対に、首から上がもぎって無くなった建物。
壊れた時そのまま。



オランダ風建物(昔の事務所)は、
当時オランダから日本初乳牛を13頭初輸入して始まった牧場ということを偲ばせます。



13頭も乳牛を輸入してくれてありがとう、とオランダから贈られた鐘だそうです。











なぜかフラミンゴさんたち。



なぜか冠鶴さん。



なぜか孔雀さん(ハーレム状態) お疲れの模様。



温泉を引いているので、冬でも咲くそうです。




 






明治時代に建てられた牛小屋。
この建物も震災で被害が無かったらしく、釘をほとんど使わず建てられている。
現在筑波大学で建物の構造の研究の為、調査が入っているらしい。

中央のトロッコは、当時の牛乳や牛の餌の出荷や搬入に使われていて、
結構距離のある鏡石駅まで直線で繋がっているとのこと。

将来的には手を入れて、
観光用に人が乗れる状態にして、鏡石駅まで復活する計画があるという。










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